作ったものを中心に

ジャニーズにハマってしまったデザイナーの私が作った非公式グッズを中心に

余白の芸術(現代アートではなくBLの話)

宮田俊哉くんと玉森裕太くんのユニット曲『BE LOVE』のコンサート演出を見て、色々思う事があった。

 

ダンスより本人達の絡みを重視したパフォーマンス自体は正直個人的にはピンとこなかった。

しかし、曲はアイドル声優が歌ってるアニメのEDみたいで私はお気に入りだし、何より演出がかなり作り込まれていた。

 

映像では玉森くんと宮田くんが描かれたBLコミック雑誌が出てきて、漫画のストーリーが流れていく。

あわせて2人が白シャツでくっついてる写真も流れていた。

設定はBLマンガ雑誌だったけど、ジャニーズアイドルにやられるとやっぱりただのBLじゃなくて本人達をモデルに二次創作された同人誌を連想してしまう。*1

漫画アニメの二次創作よりアイドルの二次創作はデリケートなものとして扱われているので公式でこんな事してくるなんて宮玉はジャニーズ界のCLAMPになりたいのだろうか。*2

 

もう一つ演出で驚いたのは衣装。

 

Twitterで連投しまくってしまった。

とにかく、女性性を意識した玉森くんの衣装は女装以上に女性的で価値が高いと思ったし、これを女装と捉えたら宮玉の世界観は最後のツイートの通り、ぶっ飛び側のBLになるわけでなかなか凄い冒険だと思った。

それは後者のタイプのBLを嫌う人はBL好きにも多いからだ。しかも女装してる玉森くんの方が宮田くんより背も高いしマッチョなわけだから、これは完全に玄人向けのBLだ。*3

公式でここまで挑むのは何故なのか。逆にBLの世界観というものをあまり知らないからこそ出来てしまった事なのかもしれない。

 

かくして東京ドームは阿鼻叫喚に包まれたのだが、その先にあった藤北のユニット曲『証』の後にふいに始まった『FIRE!』がその更に上の断末魔を引き出したのを見て思った。

 

余白が必要だ。

完全に演出し過ぎると想像の余地が減ってしまい、与えられたものを受け取る事しかできなくなってしまう。

藤ヶ谷くんと北山さんの『FIRE!』における余白はキッチリとパフォーマンスを見せていく中でお互いを見てるのに全く視線がぶつからない様であったり、物理的な距離感だったりするのだろう。

その余白が藤北を『尊い』と形容させるのかもしれない。

 

公式らしくヲタクに想像の幅を持たせてやる余裕みたいなものが備わればコンサート版BE LOVEはより良い物になったのかもしれないと感じた。

終始偉そうな事ばかり言ってしまったが、隣にいた玉担の友人は私にしがみついて絶叫していたし、満足のいく人の方が絶対的に多かったと思う。

欲を言えば、の話を長く書き過ぎてしまった。

 

因みに題名の『余白の芸術』は韓国の前衛芸術作家リーウーファンの著作から取ってみた。

リーウーファン氏は真っ白い画面に点や線をスーッと描いたすごくシンプルな作品を制作されている。

これが作品なのか?と思う人も居るかもしれない程のシンプルさだが、その広い余白があるからこそ描かれた点や線に緊張感や神聖さが宿るのだ。

この余白というものは、日本では『間』とも言われる。

絵画でもお笑いでも必要だけれど、アイドルに

も必要な時があるんだな、恐らく東洋では特に。と思ったので拝借してみた。

 

こんなところで引き合いに出してしまってウーファンを好きな方がいらっしゃったら申し訳ありません!でも私もウーファン大好き!でもホモも好き!

 

*1:私がジャニの同人で読んだ事あるのは1冊だけ。イノッチと藤ヶ谷くんのやつ。

*2:同人グループから始まったCLAMPは自らパラレル設定の話も書くしキャラクターも使い回すし二次創作側がやる事を先回りしてやっちゃうイメージなので

*3:見慣れない人からしたら身体が小さい方だったり女の子っぽい方が女の子側だとホッとするという面から。